2009年7月『俺のアフリカ展』開催記念

たそがれ見聞録
ガーナ編

 2009年1月
 2009年6月 掲載
ガーナ

1、遠〜いガーナ
東に古い伝統ある織物あると聞けば走って行き、
西に名のある染め布あれると知れば飛んで行く。
南に緻密な刺繍の布あると聞けば触れに行き、
北に絣があると知れば買いつけに行く。
気が付けば早期高齢者。年々衰える知力と体力の限界を感じながら「世界の布」を求めて旅をする。
今回は西アフリカ・ガーナのシルク・ケンテクロスの旅だ。
アフリカを代表する織物と言えばコンゴ・クバ族の草ビロードとガーナ・アシャンティ族のケンテクロスだ。コンゴは未だ内戦中で危険で入れない。ガーナは治安良好、安全地帯と知り出掛けることにした。木工品やビーズもありそうなので3代目社長も同行することになった。3代目は忙しくて当てにならない。夏から資料や関係した本を集め準備していたが肝心の旅行ガイドブックは日本では発刊されていない。英語で書かれたガイドブックを2冊購入したがチンプンカンプンだ。無いよりはまし。見慣れてくると不思議に少しは理解できてくる。ガーナの位置は何回見ても混乱するほど分らない。ガーナ行きの飛行機に乗ればガーナに着くはずだ。

真冬の秋田から熱帯ガーナへ飛び立った。
秋田空港から中部国際空港までの飛行時間、3代目は俺の用意したガーナ資料50枚に初めて目を通し「分かった」と言って以降ガーナまで寝っぱなしだ。
いつもはガラ空きの中部国際発ドバイ行きは様子が違っていた。ブラジル人がワンサカいて満席だ。聞けば(日本語で)ドバイ経由でサンパウロに帰ると言う。ブラジル行きはアメリカ経由と思っていたがブラジルは地球儀で日本の真後ろに位置する。西回りも東回りもあるがドバイ経由の西回りが少し安いらしい。今回の雇用不況で仕事を失いブラジルに帰ると言っていた。質問した夫婦は6年間働いて小金を貯め込んだので、帰国後暫くは遊んで暮らすと優雅に言っていた。
ドバイまで飛行時間11時間。ブラジル人に囲まれ満席の11時間は疲れた。到着したドバイ空港の様子も違っていた。今まではたくさんの乗客で賑わい、座るイスが無く通路にたくさんの人達が寝ていたがイスはガラガラ、目立つのは掃除姿のスタッフだけだ。
2時間余りの乗り継ぎ時間後、今度はいよいよガーナの首都・アクラ行きの飛行機に乗った。今度は真っ黒いガーナの労働者風の男達で満席だ。ドバイも金融危機でバブルが崩壊し外国人労働者が大挙して帰国していると報道されている。投資ファンドやマネーゲームと無関係な人達が世界中移動していた。この男達も小金を持って帰国するのだろうか?頭は5厘刈りが7割、3分刈りが2割、その他1割でまるでお坊さんの集団のようだ。
ドバイからアクラまで9時間。ガーナ人に囲まれ満席の旅は疲れ果てた。 
西アフリカ・ガーナは遠〜かった。

街の床屋

2、長距離バス
バスは当てにならない。
地方に出掛ける手段に長距離バスを選択した。理由は値段が安いからだ。
首都・アクラに日本人が経営する旅行会社がある事をウェブサイトで知った。メールで旅行についての情報を得ることが出来た。ご好意でガーナ人のビスマルク君(25歳・通称ビス)を雑用係に滞在中貸し出してくれた。
ガーナの公用語は英語だが現地人同士は主に現地語で会話する。ビスはガイドではないが移動するには重宝でバスで移動することにした。アクラからアシャンティ族の古都・クマシまで250kmある。アクラで3日滞在しクマシに長距離バスで出発した。予定では5時間後に到着する予定だ。バスは地域によってSTC、MMTの2社が運行している。STCは時刻表の表示しているバス。MMTは満員になれば出発するバスだ。
クマシまではSTCが運行している。午後3時出発のチケットを買いバスターミナルで待ったが来ない。遅れるのが当たり前のように他の乗客も平然と待っている。満員の乗客を乗せ3時間遅れでようやく出発した。バスは中国製で外と内を化粧し直した中古だ。乗客数を最大限可能にした55人乗り。今回、ガーナ入国に必要なイエローカード(黄熱病接種証明書)を取得する為にバスで仙台に出掛けたが、そのゆったり快適だった時と大違いだ。しかし運賃が630円と格安なので諦めるしかない。
バスは3時間後、中間駅で一休みした。再び出発して30分後、峠の頂上でエンジントラブルが発生した。運転手はボンネットを開き点検したが直ぐに諦めた。故障を直すのは困難で別のバスを呼ぶので1時間待ってくれと言っているらしい。仕方が無いだろうと暗闇になった外に出て待っていた。
1時間過ぎても代行のバスが来ない。そのうち「ギィギィギィー、ドカーン!」と目の前でバナナを満載したトラックと普通トラックが接触事故を起こし、積み荷のバナナが路上に散乱した。事故現場を眺めながら代行バスを待ったが来ない。俺が「ガーナ人は暑くて頭がボーっとして文句も言わないのか?」と3代目に聞いたら「人間が出来ているのでは?」との返答。
4時間後、ようやく代行バスが到着したが乗客は文句も言わず素直に乗り移った。予定より9時間遅れて朝5時にクマシに到着した。
その4日後、クマシからエルミナに移動した時はMMTだった。ようやく満員になった時、係員が乗り込み乗客に向かってお説教風に話をしている。乗客は皆、頭を下げてお祈りしている。ビスに聞いたら運行の安全を祈っているそうだ。お祈りするほどバスは危険なのか?
運転手は持ち前の身体能力の高さを発揮してか(?)猛烈なスピードを上げて走る。バランスやクッションが悪く、座っていても跳んだりつんのめったりで寝てもいられない。お祈りより運転手教育が必要だと思うが。ガーナ音楽のボリームを上げ、エアコンも効かせず窓を開け、土埃を中に充満させながらも乗客は我慢して乗っていた。
人間が出来ているのか?


バス乗り場

3、シルク・ケンテクロス
ボンウレ村は昔からケンテクロスを織っている。
古都・クマシの郊外20km四方にアシャンティ王国の工芸村が伝統を守りながら散在している。ケンテの村、木版染めの村、木工の村、ビーズの村、神殿がある村などがあり王国の繁栄振りが偲ばれる。工芸品に拘るアシャンティ王国は母系社会だった。王様の妻が次の王様の認証権を持っていて多くは娘婿が王様になったようだ。日本の諺に「婿3代続くと蔵が建つ」と言われるが王国繁栄の秘密は婿殿だったのかもしれない。

神殿

ケンテクロスは幅12cm前後の細幅の布を何枚も剥ぎ合わせ、巻きスカートやコートに仕立てた儀式用の布だ。綴れ織りと平織りを混ぜながら色鮮やかな色糸で文様を織り成している。素材は本来、現地の木綿糸を使用していたが奴隷貿易時代に外国から入ったシルク糸を使った高級品が一時あった。60年程前からはレーヨン糸で織っている。今回は昔のシルク・ケンテを求めて村を訪れた。
機織は昔から男の仕事だった。暑さを避けて大きな樹の下や家の軒先でコツコツとレーヨン糸で鮮やかなケンテを織っていた。一通り村の機織風景を眺めてから中心地に戻った。中心地には20軒ほどのケンテクロスのお土産屋が並んでいた。例のごとく店1軒1軒の品定めをするがどの店もレーヨン糸で作られた新作のケンテ商品をたくさん並べていた。買う客でないと思われ相手にされない。全部見終わってから1店だけに古いケンテが数点あることが分かった。いよいよ戦闘開始だ。
古いケンテを置いてある店に再度入り「もっと品質の高いシルク・ケンテはありませんか?」と聞いた。店で暇そうにしていた3人の男達が慌てだした。「少し待ってくれ、5分待ってくれ」と言って何人かを呼び集め何処かに走らせた。逃げられると思ったのか「イスに座れ」、「コーラはどうか、水はどうか」と勧める。暫くすると何人か大黒様のように白い大きな布袋を担いで走って帰ってきた。1人流暢な英語を話せる若者・ジョン(26歳)が説明役、中年の男2人が布を広げる係りで選別作業を開始した。俺の英語も「グッド」or「ノー」と言えばよいだけだ。作業開始15分後にはいつしか店内はたくさんの村人が布を抱えて入り込み、作業続行不能になった。村人同士の言い争いまで始まる始末だ。イスに座っている我々はカバンを胸に抱え頭を下げて一切の返答を拒否する姿勢をとった。暫くすると諦めたのか少し静かになってきたので「皆、店の外に出て行け!我々は帰るぞ!」と怒鳴ったらすごすごと店外に退去した。外でも順番を巡って言い争っていたので「全部見るから心配するな」と言って鎮めた。
3時間かけてアシャンティの布やガーナ北部地方の布、エヴェ族の布などを見て選別した。選別後は価格交渉だ。ジョンが仲介役になり双方を宥めながら妥協できる価格で落ち合った。
盛大な村人の送別を受けクマシのゲストハウスに帰った。ジョンから電話が入り買い物の一部を忘れたとのこと。翌朝、ジョンが忘れた品を持参してバスでゲストハウスに届けに来てくれた。2度と会う機会もない外国人にアシャンティの律儀な精神を発揮したジョン。
ケンテクロスに伝わる伝統の深さを感じた。

ケンテクロスの織手

4、古都クマシ
「金」と奴隷で王国を繁栄させたアシャンティ王国。江戸時代の徳川幕府とアシャンティ王国が時代と期間が似ている。王国は新しく発明された「鉄砲」を欧州から大量に買い入れ武装強化し、国家の基礎を築いた。資金となったのが現在も産出する「金」と「奴隷」だ。敵対する周辺の部族を平定し、再び敵対しないように頭脳や体力の優れた若者を奴隷とした。当時、人手不足で困っていた新大陸アメリカや中米からの強い需要に応える形で売り渡したのが奴隷貿易だ。中米やアメリカの黒人のご先祖様はエリートやアスリートだったのだ。スポーツや政治で世界的に活躍するのも肯けた。還暦を越えた俺は奴隷にもなれないようだ。捕まっても途中で捨てられる運命だっただろう。
王国の都・クマシは熱帯雨林で緑豊かな人口150万人の大きな都市だ。街はよく整備されているが急激な車と人口増加に追いつけずいつも渋滞している。西アフリカ随一の市場がありアシャンティ族の骨董品があるはずと期待していた。
巨大な規模の市場は数千のバラック小屋と無数の露天商で構成されていた。市場に出掛ける朝、ゲストハウスのマダムに市場にはスリがたくさんいる、カバンや腕時計に気を付けるように言われた。
市場は街の中心地の少し窪地になった所にあり高台からよく見渡せた。周辺を鉄道の線路が通っているが、両側に露天商が並び、買い物客が線路を歩いていた。中に入り物色したが迷路のようで探し出すのは不可能だった。

市場

翌日、ジョンが案内人に駆けつけてくれた。ジョンの後をゾロゾロ付いて迷路を歩いた。人込みの少ない小路に入り6畳間くらいの狭い埃っぽいアンティーク店が2店あった。1店目の店を終了し、次の店に寄ったら、恰幅のいい店主がよかったら自宅に来いと言うので、誘われるままに出掛けた。
車で30分離れた郊外に大邸宅を構えていた。家の展示場は我々も唸る西アフリカ一帯の仮面や木工品が大量に陳列されていた。遂に出会った(!)逸品のアンティークコレクションを求めることができた。
翌日はその男の実家を訪ねた。彼の兄弟もまた同じようなビジネスをしていた。我々の訪問にあわせて近隣諸国のコートジボアール人、セネガル人、トーゴ人などいろいろな人が商品を持って家の中庭に集まっていた。一級品の品々もあった。主に欧米人を相手にビジネスをしているらしい。若い男が商品を抱えて家に入ろうとしたら家主の男と口論になった。兄弟だが仲が悪いようだ。最後には素手や杖で殴りあいの乱闘騒ぎになり、周囲の止めが入って両者退場になった。
買い付け終了後、首都アクラまでの荷物の輸送方法が問題になった。日本のように運送業が発達してなく荷物が着かない可能性があるとのこと。アクラの旅行会社に問い合わせたら長距離バスの運転手に頼んで運んでもらうのが一番確実らしい。バスターミナルに荷物を運びアクラ行きの運転手に20セディー(1400円)を払い、アクラまでの輸送を委託した。
翌日アクラに無事届いたとの連絡が入った。何とかなるものです


路地裏

5、奴隷と太鼓
大西洋に面したガーナの海岸を黄金海岸と呼ばれている。アシャンティ王国の「金」が輸出されたからだ。この海岸に奴隷貿易時代の要塞だったケープコースト城、エルミナ城があり、ユネスコの世界遺産に登録されガーナ観光の目玉になっている。この城は奴隷を集め船で運んだ外国人の拠点だ。ガイドが奴隷の悲惨な収容状況や残虐性を説明している。白人、特に英国人にとっては懺悔を要求される場所のはずだが、英国人ツアー客は昔の話と割り切っているのかニコニコしながら聞いている。もし日本人なら強要されなくても謝罪の意味を込めて手を合わせご冥福を祈るのだが。
奴隷の価格を決める広い部屋があった。オークション会場で1人1人違う価格で取引されていた。奴隷は貴重な商品だったのだ。最初取引は物々交換だった。欧州からは鉄砲、金属製品、布、ビーズなどを持ち込み、ガーナからは金、木材、奴隷などと取引した。当時、イタリアのヴェネチアで作られた美しいガラス玉はトレード・ビーズと呼ばれ大量に持ち込まれていた。古いビーズを探すのも今回の目的だ。ビーズ選びに目が利く3代目は、古いビーズと出会えば喜び勇んで仕入れていた。

ケープコースト城

太鼓を叩く音が流れると首にビーズを下げた女性たちが腰をフリフリさせながら踊りだす。ガーナは太鼓作りと演奏者が有名だ。世界的に有名な太鼓演奏者ムスタファ・アディの自宅で太鼓講習が可能だと聞いて予約して出掛けた。
広い庭にイスと太鼓が2人分用意され案内された。名手・ムスタファ先生が偶然在宅していて若いお弟子さんと一緒に光栄にも指導してくれることになった。さすが世界のムスタファ先生、オーラがあり圧倒されました。手や肩の力を抜いて「1.2.1.2,」、「1,2.3.1.2.3」と指導してくれるが音感の悪い俺には向かないようだ。5分も経ったら付いて行けずギブアップした。
アフリカ音楽に日頃から親しんでいる3代目は順調に叩いて進んでいった。初めは師匠・ムスタファ先生が見ていてお言葉で3代目を褒めていたがそのうち直々に手ほどきするようになった。君は音感が良い、何か楽器を演奏しているか?と聞かれるほど。3代目光栄の至りで1時間のレッスンを終了した。
アクラではガーナの太鼓に魅せられ7年もガーナに通って太鼓修行している日本人・諏訪眞人さん(35歳)と知り合った。彼は佐渡で和太鼓・鼓動で3年修行していたが、アフリカの太鼓に憧れ、勉強する為にガーナに来た。現地人と寝起きを共にし、同じ食事を取り太鼓修行に励んでいる。今年の夏に日本に一時帰る予定らしい。ムスタファ大先生に褒められ太鼓音楽に興味を持った3代目は諏訪さんとガーナ人の著名な太鼓奏者・ニ・テテさんの演奏会を今年の夏に秋田で開催することを申し込み、了解を得た。
ガーナの太鼓演奏会をお楽しみに。

太鼓教室

6、真面目なガーナ人

世界NO.2の禁煙国家はガーナか?(NO.1は禁煙国家宣言したブータン)
「3分の間合いと7分の気合」で時々タバコを吸うが、遠慮して路上で喫煙していたら小学生の子供に「ガーナ、イズ、ノースモーキング」とたしなめられた。旅行会社が入っているビルの前で喫煙したら警備員が近寄り「煙が建物の中に流れてくるからもっと建物から離れて吸え」と注意された。
路上には生ゴミや、現地人が水分補給するビニールに入っている三角形の飲料水の空が散乱して汚い。しかし何処を見てもタバコの吸殻は見当たらない。人前で喫煙するのは外国人と相場が決まっている。ガーナ製のタバコもあるのでガーナ人は家で人目を憚って喫煙しているのだろうか?ビスに聞いたら「暑いし、タバコ代が高いから一般人は吸わないが、外国帰りのガーナ人は喫煙する」と言っていた。レストランやホテルも同様だが、どうにか外での喫煙は認めていた。
ガーナの宗教はキリスト教が半数、イスラム教が1/4、原始宗教1/4の比率だ。我々は夕食に必ず地元の「スタービール」を飲んでいたが、現地人が飲んでいる姿はあまり見かけない。レストランは9時から10時にかけて閉店する。バーやナイトクラブなども少しはあるが公園の東屋風で殺風景だ。夜になると虫が沸き立つ3代目はビスをお供に連れて1度出掛けたが、ここは面白くないと言って諦めた。
ビスやジョンはギネスのノンアルコール「Malta」しか飲まない。2人ともビールを飲んだことも無いと言っていた。酒もタバコも辞めればお金が貯まる、と思っている3代目は「お金は何に使う?」と聞いたら、彼らは「あれば貯金するけれど、貯めるお金が少ない」と肩をすくめて笑って言った。失業率が30%近いガーナ。ジョンは高校卒業後も仕事が無く、叔父さんのお土産店を手伝って食いつないでいる。我々には3日も同行して誠心誠意尽くし、仕事に貢献してくれた。一生懸命生きているガーナの若者に未来があることを願うばかりだ。

ビール

今回も写真を撮ろうと期待していた。腕の下手さを道具でカバーとばかりに、接写から望遠まで可能な最新鋭のレンズを購入し、1眼レフのカメラに着装し持参した。しかし、いざ撮ろうとすると男女問わず「ノー」と激しく叫ばれる。
勝手に撮ったのを見つかると「削除しろ」と抗議に押し寄せる。この時の表情は黒い体を震わせド度迫力で迫ってくるので怖い。素直に謝って削除する。皆、デジカメの機能を知っているようだ。
撮影前に許可が必要だが中々許可を貰えない。子供と若い女の子は興味を感じて写させてくれるが傍で見ていた親が出てきて「1セディー払え」(70円)と要求されたときもあった。ガーナの平均寿命は50代だが俺と同年代の女性は写真が本当に怖いと思って拒絶する。
魂を写され彼の世に安心して行けなくなると思っているらしい。
安らかに旅立った方がたしかに良いのだが。。。


水くみの子供たち

7、ガーナ食
ガーナの食事は不味い。
日本食が世界一と思っている俺には口が合わなかった。筍と椎茸以外は八方美人の3代目は旨い、旨いと食べていたが。
主食・フーフーはキャッサバやタロイモなどの芋類とプランテーン(食用バナナ)を蒸して、杵で搗いてお供えの丸餅にしたようなものだ。副食はトマト味ベースの鶏肉、牛肉のシチューだ。餅を指で捏ねながらシチューにつけて食べる。牛肉は水牛かと思うほど硬く歯が勿体なくて食えない。
ガーナ人は歯が綺麗だ。真っ黒い顔に真っ白い歯、歯並びが綺麗だ。歯も丈夫なようだ。長距離バスで隣に座った年頃30歳、メガネを掛けたインテリ風の痩せ型の女性がビンに入った乳酸飲料をカバンから取り出し、歯に力を入れることなくさりげなく歯で王冠を抜いた姿を見て唖然とした。この国では栓抜きが不要のようだ。
ピーナッツ味のシチューは胃がもたれる。ボソボソの米がありチャーハンを主に食べていた。大皿に丼飯山盛り一杯分のチャーハンに肉がドッサリ上がって来る。1/3も食べれば十二分だ。餅もソフトボールサイズの大きさを平然と残すことなく全部たいらげる。イモ類のカロリーが高いのか、男・ブッチャー、女・ブッチャーをたくさん見受ける。料理の味は煮込み料理なので安食堂でも高級レストランでもそれ程違わない。テーブルや食器の違いだけで値段が違うのか。


海外に出掛けたときは「郷に入っては郷に従え」と料理が口に合わなくてもディナーは現地料理と決めている。朝食はいわゆる洋食をしっかり食べ、昼食は仕事が忙しくて抜き、夕食は現地食と現地ビールを2本飲むのがいつもの定番だ。
朝食後、右肩にカバンを掛け、首にカメラバッグを下げ、左手に1.5Lの飲料水を持ちながら仕事に出掛ける。熱帯なので1日に3Lの水分補給が必要だ。過酷な条件下で2週間余り耐え、減量することを密かに期待していた。
中部国際空港に浴場があり出発前と到着後に利用する。少なくとも3kgは減っているだろうと期待して入浴後、体重計に乗った。ナニ?僅か800gの減量!今度は3代目が乗った。「エー!?+−0g!」。最新式の体重計、同じ体重計、機械故障の疑いなし。何で?
入浴後はいつもの回転寿司に出向く。2人で会話も無く一皿食べては「ウ〜ン旨い」、日本酒を一杯飲んでは「ウ〜ン旨い」を繰り返して皿を積み上げていた。
やっぱり日本人には日本料理が一番だ。

アンティーク商人

後記
いつもながら「何とかなるさ」とガーナに出掛けました。
心はさわやか、体はボロボロで無事帰国しました。現地でたくさんの方々の暖かい協力を得て目指した品々を収集することが出来ました。感謝、感謝です。
ガーナの英語は津軽弁的英語でさっぱり分かりませんでした。
体力と語学を鍛えてまた、何処かに「何とかなるさ」と布を求めて出掛けようと思っています。

From "Retirement" 小松正雄

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