ご隠居・世界を歩く
たそがれ見聞録・エチオピア編
 2007年11月
エチオピア


はるばる来たぜアフリカ!

アジズ・アベバ
 
 紅海を渡り赤土に黄色と緑のパステルカラーの大地が延々と続く。エチオピアだ。
 中部国際空港から18時間かけ、エチオピア・アジスアベバの空港に到着。初めての国はホテルにたどり着くまでが難関だ。褐色のポーターやタクシー運転手が大勢待ち構え突進してくると予想していたが外に出ても誰も来ない。ウロウロしていると政府観光局のIDカードを下げた女性が近寄り何処まで行くのかと尋ねてきた。ホテルの名前を告げるとタクシーの値段を言って携帯電話でタクシーに連絡してくれた。エチオピアよ、意外とスマートな出迎えと感心。

 アジスアベバのホテルに日本からインターネットで申し込んでいたが何故かどこも返事が来なかった。不審に思っていたがこれもエチオピア流かと考えていた。ホテルに直接出向いたが価格が倍も違う。インターネットの画面が古いだの、間違っていたとか言い訳しているが、部屋が汚くノミ、ダニ、南京虫の餌食になりそうなので諦める。事前に考えていた別のホテルに向かう。ここでも価格が倍以上違い、同じような言い訳をするが、部屋が清潔なので街の様子が分かるまで泊まることにした。
 
 エチオピアは1700年間もエチオピア正教としてキリスト教を国の宗教として崇拝してきた国。キリスト教関係の面白いものがあるのではと考え今回、買い付けにやってきた。エチオピアの国土は日本の3倍、今回は首都アジスアベバとキリスト教の歴史が深い北部4都市を巡る日程を組んだ。

 到着後、休むことなく我々親子は麻薬探知犬のごとくアジスアベバの街を目鼻を利かせて探し回った。沿道に老若男女を問わず到る所に物乞い多数、目の前を通るたびに手を差し伸べ「金をくれ」と言っている。インドより多いことに驚く。もしかして未だ貧困が支配して仕入れるものが無いのではと不安がよぎる。エチオピア人は気さくで我々を見ると「ヘーイ・ミスター」、「ハロー」などと声が掛かる。無視していると最後に「チャイニーズ」と言われ「ノー・ジャパニーズ」と言ってしまう。英語はこの国でも共通語だ。商売している連中は皆、英語を上手に話す。英語を話さなければ商売にならないのだろう。

  アジスアベバは標高2300mの高さに位置している。赤道直下に関わらず高地なので年中、最高気温27,8度、最低気10度程度で年中一定している。雨季は6月から9月まで、乾季は10月から5月まで。11月は毎日快晴だった。

 急な坂道が多いアジスアベバの街をマラソンの高地トレーニングのように捜し歩いた。
 


マティーさん&マルガビさん

マティーさん夫妻

 
 アジスアベバの骨董屋を探索して2日目、外国人があまり出入りしない街角で昼飯を食べようと珈琲ショップに入った。ドーナッツやケーキが入ったショーケースを覗き込み2人で「どれにする?」などと会話していたら「日本の方ですか?」と30歳くらいの若いエチオピア女性に声を掛けられた。名前はマティーさん。7年間日本で働いて資金を稼ぎ、2年前に帰国してこの店のオーナーになった。店はマルカート(市場)の近くで人通りの多い繁華街の一角だ。我々が開店以来、初めての日本人客だった。マティーさんは偶然にも秋田市土崎のエチオピア料理店・ブルーナイルのアステルさんとも親しく話しが弾んだ。

 マティーさんは極端な?親日派だ。

 7年間、日本で働いて日本人は皆優しく、親切だった。いやになったこともない。と礼賛してくれる。マティーさんは最初3年間、長野県塩尻近郊の朝日村で高級和牛の畜産会社に外国人就労者として勤務した。日本人には辛い家畜相手の仕事だがロバ、ヤギ、羊、牛と一緒に育ったエチオピアの家庭に比べると高級和牛の飼育作業は天国だったかもしれない。彼女が担当し育てた牛が日本一に輝いた事もあったと語っていた。
 日本では家族的なもてなしを受け異国の辛さ感じる事もなく田舎で楽しく過ごせたようだ。その後、同じ職場にいたエチオピア人・マルガビさんと結婚し東京の皮製造会社で4年間働いて貯蓄に励んだ。現在夫妻は、25名のスタッフを擁し、朝6時半から夜9時半まで営業するバリバリの実業家だ。勤勉の値打ちを日本から学んだようだ。

 夫・マルガビさんから見たエチオピア人評価は痛切だ。

 エチオピア人は働けるのにもかかわらず働かない。(物乞いとか?)

 間違いを他人の責任にして言い訳ばかり言う。(我々はホテルで体験済み)

 女性は若い時は日本人より美人が多いが(プロポーションが違います)、中年になれば日本人の方が美しい(確かです)。

 奥さん(マティー)はエチオピア人だが彼女は日本育ちだから違う。

 現在、夫妻には2歳の長女と6ヶ月の次女がいてベビーシッター2人を雇って育てている。大きくなったら日本に留学させるのが夢と語っていた。

 街を走っているタクシーは30〜40年前の超ポンコツ日本車だ。マルガビさんの車は走行距離7万キロのまだ新しいベンツ。アジスで合縁奇縁を感じながらそのベンツに乗せてもらった。


土曜日の青空市場

市に向かう人々
 
 
エチオピア正教には断食の日数がやたら多い。正式にはクリスマスやイースターなどの前は何日も断食をするそうだが、一般にはキリスト様が死んだ金曜日とキリスト様が生まれ変わった水曜日は精進料理で、肉や乳製品を口にしない。それで毎週土曜日は各地で大きな青空市場が開かれる。日頃、静かな市場も土曜日だけは近隣各地からたくさんの農民が集まり収穫した主食のテフや唐辛子などの作物を運んでくる。

 裸足かゴム草履に半ズボン姿、杖代わりの棒を肩に担ぎ茶色に染まった木綿のブランケットを羽織り、長い手足を動かし足早にスタスタ歩いている。重い荷物はロバに背負わせ、ロバは市場に向かって勝手に小走りに歩いて行く。50km圏内から皆歩いてくるらしい。市は午前10時からお昼過ぎまでが最盛期で終われば宿泊することも無く歩いて帰る。2000m超の高地を1日で往復100kmを歩くのには驚嘆する。

 土曜日の青空市場は現地でしか見ることが出来ないファッションや収穫物が並び絶好の写真撮影場になり楽しい。

 エチオピア人の主食はインジェラだ。高地栽培に適したイネ科の植物テフは直径0・5mm程の細かな粒子だ。脱穀した後、水で溶かし発酵させ、丸い鉄板で片面を焼く、濃い茶色のクレープのようになる。味は酸っぱくて食べづらい。折り畳んだインジェラは雑巾のように見える。肉、野菜に赤色、青色の唐辛子を加えて一緒に手づかみで食べる。土地のものを食べなければと思い食べるが辛くてビールだけがはかどる。レストランではインジェラのお代わり自由だが俺には1枚食べれば食欲を無くし、もう十二分だった。

 エチオピア人は3度の食事にインジェラを食べるが俺には1日1回が限界だった。幸いイタリア料理のメニューもありスパゲティーやマカロニで食いつないでいた。

 エチオピア人はビールが好きだ。エチオピアのビールは旨いし安い。何種類かのビールがあるが、馬に乗って竜を退治する聖人画で有名なセント・ジョージが一番だ。夕方になると喫茶店やレストランがビヤホールに変わり、毎晩大勢の男たちが談笑しながら食事なしでビールをラッパ飲みしていた。夜の8時を過ぎるとブンナベット(女と酒)、アズマリベット(歌と民族ダンス)が始まり、熱気は一気に高揚して真夜中まで大騒ぎする。

 夜が熱いのがエチオピアだ。


友達の友達はボッタクリ屋だった

夕食時のご隠居
 
 今回、1通の手紙を持参した。和彦の友人S君は最近までエチオピアでボランティアとして2年間働いていた。S君が活動していた地に着いたらS君の友人のエチオピア人が旅行会社をしているのでホテルや店を紹介してもらおうと手紙兼紹介状を書いてもらった。現地に着いたら彼に直ぐに会うことができ、持参した手紙を渡した。やけに派手なブレザーとTシャツ姿で、キザな姿が気に掛かった。S君は俺のベストフレンドだと語ったまでは良かったが今日、明日のガイド料は12000円だと言った。1日半でその値段は高過ぎのるで今日の半日分で結構と答えたら半額にする返答。S君の紹介だからこれ以上値切るのを諦めホテルを探しに出かけた。

 最初は町の中心部の汚いホテルで駄目、次は町外れの不便なところに在るホテルを紹介。今日一泊と諦めホテルを決めた。タクシーで工芸品の店5箇所を紹介してくれるが皆、ただのお土産品で駄目。最後に日本人が関わった土産用焼き物工房に連れて行かれたが当然駄目。1時間半のコースでこれ以上は無いので終了と言う。観光にも連れて行く気配なくお金を払えと怖い顔をして言う。これはボッタクリだ。

 喧嘩に成るのも困るので素直に払ったが今回一番の不愉快な出来事だった。 お金持ちの国・日本から良い客が舞い込んだと思ったのだろう。

 アジスアベバ到着した翌日にもボッタクリ未遂事件に遭っている。夕方、レストランに向かうためにタクシーを捜していたら派手なTシャツ姿の男が親切に何処まで行くのかと聞き、俺に任せろと手配してくれた。料金はと聞くと30だと答え男が連れてきたタクシーに乗った。途中、変な日本語を交えながら珈琲セレモニーに参加しなかと誘う。断ると今日は特別な日で民族ダンスがある、見に行かないかと誘う。アジスアベバの自称ガイドにボッタクリが多いことは資料で知っていた。これは怪しいと感じ全て興味がないノーと答えレストランに着いた。30ブル(450円)払ったら30ドルだと脅迫する。タクシーがポンコツでドアにノブがなく、足でドアを蹴って開き外に出た。一触即発の状況になったが、さすがに大男2人相手では敵わないと思ったのか大声を上げながら引き下がっていった。

 エチオピアではお金持ちは貧乏人にお金を施すのが当たり前と考えているようだ。内戦、飢餓が長く続いたエチオピア、まだまだボッタクリ屋が多いようだ。

M君
M君(右)

 
 
ラリベラはアフリカで最初に世界遺産に指定された有名な教会群がある所だ。今から800年前に20数年の年月を掛けて岩山を掘り下げ、地下にユニークな11棟の岩窟教会を造った。

 最初の教会に入ろうとした時、「日本の方ですか?」と声を掛ける日本人青年がいた。「エチオピアに着いてから日本人と会ってなくて・・」と不安そうに話す。「どうしたの?」と聞くと「毎日、エチオピア人に騙され、ボッタクリされてこの国が嫌になった」と言う。気の毒に思い、観光終了後に一緒に行動することにした。

 彼、M君(25歳)は今回の旅行で出会った唯一の日本人だ。母子家庭で育った彼は大学卒業後、商社に勤務したが気の毒にも昨年夏に病気で母を亡くし、今年の夏に唯一の妹を亡くした。天涯孤独になった彼は妹の葬儀の後、再起を図る為に仕事を辞めて1年半に渡る遠大な世界一周旅行を計画した。リュック1つで10月に東京を出発し東南アジアを1ヶ月かけて順調に回り、バンコックからアジスアベバに飛んだ。初めて踏んだアフリカの地がエチオピアだ。

 ラリベラの岩窟教会周辺には昔ながらの丸い土壁に草葺屋根の古い農家が密集している。村の中を3人で歩いていると、おばさんが渾身の笑みを見せて我々に手招きし珈琲セレモニーと誘っている。ボッタクリでは無さそうなので室内に入った。板戸の他に小さな窓が1つ、薄暗い8畳間程度の広さに竃が設置され、部屋の周辺には寝具になりそうなブランケットなどが置かれていた。泥を固めたスベスベの床に緑の細い茎を一面に敷いている。松尾芭蕉の句、「蚤しらみ馬の尿(バリ)する枕元」を思い浮かべたがここは蚤しらみのレベルではないダニ、南京虫もいるはずだ。芭蕉の境地で珈琲セレモニーを眺めた。コーヒー豆を鉄板で炒ってから臼でついて粉末にし、水と一緒にポットで煮立て小さな茶碗に入れて出す。野趣溢れる風情満点のセレモニーだった。夜は気分転換にラリベラ一番の高級ホテルでワインやビールを飲みながら旅先の話題で話し込んだ。日本での再会を約束して、M君はバスでアジスアベバに戻った。

 後日我々がアジスアベバのホテルに着いたらM君からの手紙があった。

 「先日、ラリベラではお世話になりました。(中略)アジスアベバでは変な奴らに追われ外出できない状態でした。本日、ケニアに飛行機で行くことにしました。数日間、有難うございました。リフレッシュできました。」

 M君は今、ケニア、ウガンダと順調に旅しているらしい。

 艱難(かんなん)汝を玉にス。頑張れ、M君。


アベベが転んだ
アベベの墓

 
 エチオピアと言えばアベベ。東京オリンピックで史上初のマラソン2連覇。ローマ大会で裸足の王者と称されたアベベが東京オリンピックでも独走して優勝した姿を覚えている。トップでゴールしたアベベは汗もかかず、苦しさを見せることなく王者の風格を漂わせていた。しばらく経ってから競技場に入ってきたのが円谷幸吉だ。渾身の精力を振り絞り、重い足取りで必死にゴールを目指す姿に「頑張れ円谷」と日本人が総力を挙げて応援した。じりじり迫るヒートリー、必死に逃げる円谷、日本国民は熱狂した。最後はヒートリーに抜かれた円谷だが3位になりこの大会始めての日章旗が競技場に掲げられた。

 アベベと円谷、4分も遅れて同じコースを走ってきたのかと疑問を感じるほど2人の姿は好対照だった。彼らは永遠のヒーローとして日本人に記憶された。

 農家の次男に生まれ、親衛隊に入隊したアベベは軍隊のマラソン大会で才能を見出され陸上選手に成った。金メダルを獲得し、将校の位を得て、羨望の生活を送っていた。5年後、アベベは不可解な交通事故で不運にも半身不随になり闘病4年後、41歳の若さで亡くなった。

 エチオピアに行ったらアベベのお墓参りを考えていた。アベベはエチオピアで当然、ヒーローだ。誰に聞いてもアベベを知っている。旅行の最終日、仕事も片付いたので馴染みになったタクシーの運転手の案内でアベベの墓参りに出掛けた。聖ヨセフ教会の敷地中央にあった。直系10m位の円形サークルに有刺鉄線が張り巡らせてあった。良く見ると無残にも足元からハンマーで壊され銅像が横に転んでいた。左後方にメキシコ・オリンピックの金メダリスト・マモの銅像も同じく無残に壊されていた。教会の管理者に聞いたら、詳しくは分からないが今年、壊されたと語っていた。政府に反感を持った連中の破壊行為らしい。80もの民族が集まったエチオピアの不安定な現状を示していた。

 次にアベベ記念国立競技場にあるアベベのスポーツ店に出かけた。街の中心部にある競技場はレストランや喫茶店がたくさん有り、賑やかだ。アベベスポーツ店は閉店してレストランに変わっていた。ブランド品のスポーツ用品を買うお客さんが少なく経営が成り立たなかったようだ。アベベの家族は現在、貧しく小さな家に住んでいるようだ。タクシーの運転手がアベベの家を知っているので訪問するかと尋ねたが断った。

 アベベと4年後に自ら命を絶った円谷、栄光の東京オリンピック以後、2人は同じように不運な運命を辿ったのも奇縁だ。スポーツショップでエチオピアのナショナルチームのウェアーが売られていた。記念にランニングウェアーを買って帰った。

※エチオピアのイコンや工芸品の話は2007年中に店主がブログにて連載いたします
From "Retirement" 小松正雄

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